「暴力はいけない」とか言う人の事は、あまり下手に信用しない方が良いのではないか?
何故なら、そんな風に言う者に限って、去り気無く"精神的暴力"や"言葉の暴力"をしやがったりしますからなあ。
皆さんは如何思われますか?
確かに、その傾向はあると思う。
ただ、その比較として暴力を肯定する人がいれば、それ以上に危険な人が多い印象を持っている。
今回の首相や元首相、ウクライナの件等を見て肯定する人が居るが正直危険に感じてもいる。
確かに、そう思う事も多い。
少なくとも、その人は肉体的な暴力は働いて来ない人である、って事は分かる。
つまり討論に勝てば打ち負かせる、こちらの正当性を主張出来る、と言う事ではあるだろうと思う。
暴力とはなんらかのその人が持ち得る力(パワー)で相手の意見や状況などを理不尽に捻じ伏せる事と思っている。
経済力・権力・言葉・能力etc…。
物理暴力が苦手な人が"精神的暴力"や"言葉の暴力"の方が得意なのでそちらを使用しているだけだと思う。
なので暴力はいけないと叫ぶ人は、
暴力=物理的な筋力によるパンチ・キック、武術等による身体への攻撃を禁止しようという意味で使っていると思う。
無意識に封じている場合と故意に封じている場合がある。
喧嘩(武力)は出来ない、嫌い、苦手怖いからそれは禁止だ!
しかし立場・コネ(権力)や数の力で相手を精神的に痛めつけて自殺へ追い込む例は幾らでもある。
部下へ敢えてきつい仕事を全部ま回して潰す方法もあったりしている。
結局、自分が使える暴力を使っていると言う事だ。
物理・精神的どちらにしても暴力を使用するときは覚悟が必要なのだが精神的な暴力は、本人に自覚を発生させ難いようで、軽い気持ちで使い易いようだ。
覚悟がいるのが何故かと言うと、
何処かでその暴力によって発生したパワーが跳ね返って来るからだ。
物理的ならその場で反撃と言う形かも知れないので気軽に出来ないのかも知れない(パワハラを見るに無抵抗だと物理でもやっているが。)。
精神的だと後から復讐、その家族に報復、所属している会社へ報復、
いやどうせなら理不尽なこの社会へ・・・と精神的暴力は溜め込み他へと暴発するのが怖いだろう。
なので暴力とは何か?と迷ったら「人の嫌がる事をしない」「自分へ嫌がる事をしない」を認識するようにしている。
これだけでは難しい事も多いが無いよりはましである。
少なくとも、その人は肉体的な暴力は働いてこない人である、ってことは分かる
つまり討論に勝てば打ち負かせる、こちらの正当性を主張できる、ということではあるかな
ただ「暴力はいけない」と言う人は信用出来ないと言うのは、流石に飛躍し過ぎではないか、と思えた。
そう言う人の中には言葉の暴力もいけないと思っている人は沢山いるだろうし、十把一絡げでま纏めてしまうのは、人と付き合う上では難しい状況を引き起こしてしまわないからだ。
故に「だれも信用出来ない」とほぼ同義になってしまうだろうからである。
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#暴力 #信用性 #人間関係