光と風と時の部屋

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Q『周りと違って自分だけが偏見もせず視野、見識が広いと言うのも、浮いてしまうだけ』なのか? ➡ A 『違います。』

Q『周りと違って自分だけが偏見もせず視野、見識が広いと言うのも、浮いてしまうだけ』なのか?

 

➡ A 『違います。』

 

上の僅か数行にも、前提となっている認識が誤っている事、その背景にある認知の歪みと他者理解の乏しさが如実で、どこから指摘したらいいものやらさっぱり分からない。

 

ある集団で一人だけが異質であったとしても「馴染めない」場合にその理由はその一人だけが知能が高く見識が深いからではない。

その人が他人と上手に接することができるのであれば、集団内での軋轢はなくやって行けるものである。

その人が内心では居心地の悪さや、疎外感を感じているかも知れない。

 

しかし、コミュニケーション能力が高ければ、「知的能力の高さ」が原因でその他の集団メンバーから攻撃される、と言う事態にはならない。

 

「浮いてしまう」と「馴染めない」は似ているようで違う状態だ。

察するに、少し以前までの「自分」は、

属する組織(学校か職場だ)で、穂以下の集団メンバーから冷淡な態度、仲間に入れてやらない、と言う対応を取られていた、もしくは取られそうになっていたのではないか。

もしかすると、もっと攻撃的な態度を取られていたのかも知れない。

 

しかしその理由は、「本人だけが、周囲が言うような偏見を言わない公正な人柄を持ち、見識が深く、物事の神髄を掴んでいるから」等では有り得ない。

もっと単刀直入に申し上げると、その頃の「自分」は、実際には智力は高くなく、

問題解決能力は比較的低いあるいは偏っている人だった。 智力の高くない点は、その集団から脱出出来ない、あるいは脱出に時間がかかっていた事から明確だ。

外国の諺に

「自分がその集団で一番賢い人間だと思えば、そこを去る時である」と言う言葉があるぐらいだ。

にも拘(かか)わらず、その「自分」が人間関係のごたごたにここまで悩まされるまで居続けている理由は、自由に動けるほど能力が高くない(社会的に認められる実績が無い)から、あるいは問題解決能力が低いからだった。

 

くどくど言わなくとも、本人曰く「視野が狭く見識が広くない」メンバーばかりしかいない組織に属するのが事実であれば、その時点でこの人の知的能力の高く無さも確定していた。

 

ただし、多少、小難しい本は好んで読んでいそうに思われていた事だろう。

そして「自分だけは」小難しい本を多数読んでいるから見識を深められた、と誤解していたのだ。

 

しかし本人の自己評価と、客観的な評価、即ち実際の実力はかなりかけ離れている事だろう。

少なくとも、本人の「偏見を言わず、自分一人だけ視野が広く、見識が深い」と言うのはきっと事実ではない。

一言で言うと殆どが "影での自惚れ" だろう。 それは本人が、他の集団メンバーに対して「偏見を言うような品性下劣な人間性で、知的交渉差を理解せず、視野が狭い」とみなしていた事からも分かる。

視野が広くなればなる程、見識が高くなればなる程、こう言う風に他人を決め付けるのは減って行くように思える。

 

より正確に言うと「十分な社会性が備えた人間が」広い視野と、高い見識を身に着けたならば、このように他人を認識する事は減って行く。

それは当たり前ではないか。

 

真に視野が広くなればなる程、物事を学べば学ぶほど、自分が如何にちっぽけな存在か、先達がどれほど偉大だったか、自分が人類の歴史という大河の中のたった一滴でしか無い事を悟るようになるものだ。

それが分からないのは井の中の蛙だ。

分からない原因は、社会性が低くて認識出来ないか、知的能力(即ち視野が狭く見識も浅い)から認識出来ないか、この両方か、である。

 

IQ300以上の天才数学者ジョン・フォン・ノイマンですら、全ての分野において絶対的な自信は持っていなかった。

彼の知的能力からすれば、全人類が馬鹿に見えたかも知れない。

実際、他者の理解の遅さに苛立ち、暴言めいた言葉を口にした事さえあるぐらいだった。

その他者と言うのも当代一流の教授たちで、平均的には人類最高峰だったのにである。

それでも、ジョン・フォン・ノイマンは全ての事に対して「自分だけが見識が高く、視野が広い」とは言わなかった。

当然ながら、言えなかったのだろう。

視野が広くなる、見識が深くなるとはそういう事である。

 

これまでの「自分」の知的能力の高くなさ、他人の機微にあまりにも疎い点は、「自分が集団から嫌われている理由が、自分一人が知的で、人柄が良く、謙虚だから」と思い込んでいる辺りに表れている。

 

実際には上述のように、自惚れが激しく、自分軸でしか物事を見る事が出来ず、他者と友好的なコミュニケートが出来ない社会性の低さのせいだった。

 

もしかすると他人を見下していたのが態度に出ているから嫌われているのだろうとも思う。

 

この自分こそが他人は他人の本人軸で物事を考えていると言う事を、本当には理解出来ていない人だった。

この社会性の欠如、即ち客観性の欠如は深刻だ。 しかし、そのような人間に何を言ってもおおよそ無駄になる。

 

何故なら、社会性が低く自分軸でしか見られないのだから、他人の言う事を間違っているとしか感じられないのだ。

本人は「自分は、偏見を言わない公明正大な人柄で、視野が狭く、見識の深い人間だ」が正しいと思い込み続けるようになる事だろう。

だから、あの時の自分のままなら長い間、同じ問題に直面し続ける所だった。

 

即ち、(本人からすると)

"本人だけが偏見を言わず、視野が広く、見識が深いせいで、集団の品性下劣な輩どもから理不尽な苛めを受けた”

と主張し続けていた事だろう。

つまり、問題を把握する能力自体が低いので、問題解決能力も低いと言う事だったのだ。

 

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